私はコンサルに肉親を殺されたわけではないが、
何でも数値化したり、それっぽいランクを作ったり、
一見普遍的なモデルに当てはめることにはやや消極的だ。
理由は簡単。
分断を生むからだ。

一定の競争は必要だが…
学歴社会が完成された社会システムとは言わないが、
自分が生まれた国の言語は、生きていくために、騙されないために、
数値や記号認識を含めてある程度できておく必要がある。
そのためには、試験という手法で達成度を測り、
できている人を称賛し、尊敬の対象または到達すべき目標として、
その他の人々を鼓舞することは決して悪いことではない。
それが健全に機能するうちは、という但し書きがあるが。
わたしたちは、1000年以上も前のことに責任を取れない。
それ故に、古文書を読み解く力を万人が持つ必要はない。
専門家が読み下したものを、将来を紐解く材料として、
「歴史に学ぶ」ということができれば十分だ。
また、わたしたちは全員が数理学者である必要もない。
無限に存在する素数の神秘を根本から理解しようとする試みは、
明日の昼飯に直接役に立つものではない。
こういった中庸的な基本スタンスを忘れると、
単に知識を持っていることが偉いという誤解が広がり、
1728年に何が起きたかを知らないと馬鹿だ、とかいう極論になる。
教育というものは、各分野を題材として、
考え抜く力を養う、頭の筋トレがメインの目的で、
題材に社会規範を扱うことで、生きる前提も「ついでに」養うものだ。
題材そのものを生涯のテーマに選ぶことは、
あくまでも「選択肢」であり、普遍的に崇拝される領域ではない。
数値化・記号化による過度な競争
いわゆる「リテラシー」の領域を超えた数値は、
基本的には「0か1か」の二元論に収束する、
とわたしは考えている。
テストの点数は、60点よりも80点が良いとされ、
さらには80点よりも100点が良いとされ、
100点以外は無価値という極論が時として生まれる。
その100点は、そのテストの出題範囲でのスコアでしかない。
世の中に出回っているスコアも、一定の枠内での評価だ。
その瞬間喜ぶことは別に良い。わたしも100点は嬉しかった。
問題は、それにいつまでもすがることだ。
学歴社会も、入試という一過性のイベントで良い点数を叩き出し、
卒業までの各フェーズで試験や論文をこなしたことの証明でしかない。
安心して勉強できる家庭環境や教育資金が潤沢にあったという点で、
その人の人間性や能力も一定程度信頼できるという傾向はあるが、
学歴はその人を完全には保証しない。勉強だけ達者な破綻者はいる。
にもかかわらず、数値化・記号化は人を惹き付ける。
判断に際し、自分が考えずに済むからだ。
「より高いスコアのものを選べば問題ない」
「高いスコアを叩き出しておけば信頼される」
限られた枠組みで動くことは楽である。他のことを考えなくて済む。
だからこそ、その枠の中で過剰な競争が生まれる。
他にエネルギーを注がず、投機的に動く羽目になるためだ。
しかも、手に入るものが資本(⇒多ければよいものという錯覚を生むもの)なので、
二重の構造で競争激化する。
競争のための競争
では、その競争の果てに何があるのだろうか。
競争で仮に勝ったとして、その状態が次のスタンダードになる。
激化に輪をかける構造だ。
そうなると、リソースを徹底的に食いつぶし、
明日の自分さえも賭けの対象とする状況になる。
24時間働いてカネを稼いでいる状況がこれに近い。
ここまで来ると、他のプレイヤーを蹴落とすしかなくなってくる。
これが、分断である。覇権主義がこれにあたる。
覇権主義は、「No.1になる以外は価値がない」という考えだ。
No.1になるために、せっせと資本をためる必要があり、
他のプレイヤーと「やるかやられるか」の状態になる。
これがこじれると、他のプレイヤーがすべて敵になり、
敵を滅ぼさない自分に価値がない、という所まで行きつく。
著名なコンサル様が出版している本を読んでみると、
そういう本に限って、昔の仲間・学友を馬鹿にしている。
あの時行動していなかった奴らは愚かだった、と語るのだ。
自分が完全な正義であると示すことが存在意義と勘違いした結果だ。
本来の目的に立ち返れ
念のため言っておくが、わたしは原理主義者ではないし、
文明否定論者でもないし、ましてや社会主義者でもない。
少なくとも、石器時代には戻れない。
基準点がコロコロ変わる現代では難しいことは承知だが、
そもそも何を目指しているのか?という問いは常に持っておきたい。
ゴールが変わってしまうことは確かに頻繁に起きてしまう。
だからこそ、短期ではなく中長期のゴールを作りたい。
わたしの希望的な推測も入れさせてもらうと、
そのような「ゴール」は数字・記号では表現のきかない領域となるはずだ。
単純には測れないもの、即効性のない地道な行動が求められるもの、
一点特化ではない全体システム的な営みが出てくる。
その一瞬だけ稼げれば良いという話ではなく、
長いスパンで息切れせずに、身の丈に合った評価を得ていくために、
何が必要か、を考えていく場面が出てくる。
資本主義がいろんな意味で暴走した、
インフレ上等、金貨最高、勝ち負け二元論、のような現状では、
目の前の、自分より弱い立場から搾取するだけの世界に留まるだろう。
そこから抜け出すには、世界規模で何が必要か。
実践は足元より、である。
嘆くだけではない活動を、考えたい。
結び
本論では書ききれなかったが、数理モデルも分断を生む。
「モデル内にない変数」が世界に存在しない前提だからだ。
家事労働は、消えやすい変数の代表例である。
何かを抽象化することは、
その周縁にあるアナログ情報を削ぎ落すこととセットである。
文字情報ですら、声色というアナログ情報が消えている。
だからこそ、数値情報・記号情報は慎重に扱われるべきだ。
本来は何を目指して抽象化をしたのか。捨てた情報に責任を取れるか。
カネがすべてと考えている状況になっていたら、立ち返る時間を持ちたい。


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