人生という枠の中で、ミスは付きまとう。
幼少期に転んだことから始まり、
学生時代に計算ミスでテストで減点され、
仕事では連絡ミスで余計な手間を発生させたり。
そういう一つ一つの積み重ねの中で、
あなたをあざ笑うひとはいなかっただろうか。
逆に、あなたがあざ笑う側になったりしなかっただろうか。
自戒を込めて、エントリーを書き綴った。
他人のミスに笑う暇があれば、受け流して自省の時間を持とう。

誰かのミスは、あなたと無関係
人間の感情は面倒な構造をしている。
誰かのミスが、脳の報酬系とつながっている。
雑に言えば、脳は誰かのミスを求めているのだ。
そうでなければ、馬鹿をやって再生数を稼ぐ手法はとっくに絶滅している。
加えて、間違いを指摘することは簡単だ。
マウントを取る表現で、「あいつは馬鹿だ」と言えば済む。
加えて、自分の責任・アウトプットではないから、
メールなどの間違いも見つけやすい立場にある。
だからこそ注意したいのが、ミスの指摘をするか否か、である。
相手が何か勘違いをしていて、あなたの仕事に致命的なものであれば、
ミスを指摘すべきというのは当然に納得できる。
それとは異なり、主要な部分ではない枝葉の項目で、
しかも陰口的に、発信者のミスを取りあげて楽しむのはいただけない。
その行為が、自分にどれだけの付加価値を与えるのか、考えた方が良い。
逆に、細かいところばかり指摘する面倒な奴と思われる可能性すらある。
あなたがミスをする事象と、
他の誰かがミスをする事象は、本質的には無関係だ。
脳神経がつながっているわけでもないのだから。
また、誰かのミスが、相対的にあなたの評価を上げるかもしれないが、
人のミスを笑っているだけでは、逆に下がることも注意したい。
結局のところ、自分の評価は自分のアウトプットで決まっていくのだ。
「正義中毒」は改善を生まない
反対意見は改善提案とセット、は難しい。
脳の報酬系がそのようにできていないことに加えて、
実運用まで考えた発言を求めることであるからだ。
だからこそ、ミスを指摘することはやめられない。
それだけで自分が正しいと思えるからだ。
手を動かさなければ単なるビッグマウスであると、
当の本人が分かっていても、だ。
SNSでも、「正義中毒者」がそこそこいる。
炎上するような無配慮な発言をするのが迂闊なのはそのとおりだが、
いつまでの粘着し続けるのは病的である。
彼らは、同じことをされたらどう感じるか、への想像力が足りない。
恐らく、意味不明に逆ギレするのだろうが。
人のミスにうるさくて、自分のミスを認めない人だけの組織では、
誰も自分の考えを言わないだろう。これでは新しいものが出てこない。
AIに任せればいい?本気で言ってます、それ?
AIこそ、最終判断に責任を取りませんよ。使うのはたたき台まで。
非効率と馬鹿にされるようだが、この文章も100%オリジナルだ。
そうでなければ、意味がない。ここは、わたしの考えを綴る場なのだから。
他人のミスより、自分のミス
他人のミスを勉強材料とするのは良い。
同じミスを、わたしやあなたがする可能性はいくらでもある。
だから、勉強する。そして、組織に還元する。
前向きな発展にこそ、ミスは本来使われるべきだ。
その上で、わたしたちは自分のミスをより意識すべきである。
反省日記ばかり付けるのは考え物だが、方向性は健全だ。
誰かをけなすのも、よくよく考えればつらい。
それが笑いという結果につながっていても、だ。
自分のミスを恥ずかしがって終わる方が、わたしは気が楽だ。
だからこそ、自分のミスというものを正直に認め、
次への処方箋を書きなぐることに、エネルギーを注ぐ。
ミスの予防のための行動は、自分だけのためでも構わない。
次こそは、笑われないように。
今度こそは、余計な批判を浴びないように。
来年の今は、余裕を持っていられるように。
こういった1つ1つへのエネルギーは、
健全に回れば他の人のための活動となり、
巡り巡って長期的な利益を社会にもたらす。
反対に、今この瞬間だけ楽しむだけの活動は、
誰かを犠牲にし、わずかだが確かな負の循環を生み、
将来的な組織の停滞と破滅を導く材料となる。
どちらを選ぶのか、は各人の自由である。
あなたの選択に、わたしは直接の関与はできない。
わたしの選択は、わたし自身が責任を取らねばならない。
だからこそ、瞬間的なものではなく、
長い目で見た時どうなるか、の感覚は鋭く持っておきたい。
結び
生存戦略として、脳は嫌な記憶を深く刻み付ける。
同じことを繰り返さないよう覚えておけ、という構造だ。
嫌なこと=死に近いこと、という旧皮質由来のものだとか。
だからこそ、その「嫌なこと」は自分由来でありたい。
本来助け合うべき間柄の仲間から嫌なことをされるようでは、
とてもではないがその組織に長くいようと思えない。
生暖かい、うわべの言葉を投げかけるのも考え物であるが、
自分が所属する組織体と、そこと接する組織体の仲間までとは、
少なくともミスを認めあえる関係でありたい。
もちろん、実態として難しい。だからこそ、始めなければいけない。
瞬間を切り取ることが増えて、それに慣れてしまうと、
大きな文脈を無視した批判が横行してしまう。
「その瞬間だけ正しい」ことには実はそれほどの価値はない。
瞬間的に理不尽と感じることも、伝え方ひとつで大きく変わる。
無駄に我慢しろとは言わない。
ただ、瞬間湯沸かし器のような当たり散らしが本当に有益か、
少しでも考えるゆとりを持つことは、無駄ではないはずだ。


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