「常識」について懐疑的なスタンスのわたしだが、
別に常に毛嫌いしているわけではない。
自分の思想・価値観と相いれない常識とどう付き合うか。
大層なタイトルを敢えて付けた。
お付き合いいただけると幸いである。

大前提:常識は移り変わる
哲学体系のような大層な議題ならば違う可能性はあるが、
人間社会のほとんどのものは移り変わる。
100年も経てば人は丸ごと入れ替わる。至極簡単な話だ。
その、あなたやわたしが生きている期間に生まれる常識は、
世の中の声の大きい側が発したご都合主義の産物である。
あなたの人生の目的に真に寄り添ったものとは言い難い。
故に、あなたの価値観と、時代の常識は完全一致はしない。
一致する場合は、あなたが時代の覇者だ。謳歌することを推奨する。
そうでなければ、「一致しないことが自然」というスタンスを持とう。
絶対ではないから統合できる
「常識」がご都合主義、ローカルルールであることを踏まえれば、
あなたが常識に慌てて合わせる必要がないことも理解できるはずだ。
そもそも、社会と個人とでは意識されるレイヤーが違い過ぎる。
昨今騒がれる常識とは、5年持てば長いレベルだ。
よく見えないものに逐一合わせるほど、人類は暇ではない。
その一方で、価値観というものは比較的長く・緩く形成される。
価値観も人生のフェーズで変わっていくものではあるが、
臨死体験のような極端なケースを除き、乱高下はしない。
あなたも、昨日と今日とで大体同じ生活をしているならば、
昨日までと全く違う生き方を今日いきなり志向することはないはずだ。
(繰り返すが、極端なイベントがないことが前提だ)
ランダムに変化・乱高下していくものと、緩いペースで移り変わるもの。
二つを重ね合わせると、その時々で「重なる領域」が変わる。
この重なりの変化に気づくことが、統合の余地を生む。
常識のレイヤーと折り合いをつける
先ほど軽く触れているとおり、常識には社会的なレイヤーがある。
個人の価値観を逐一織り込んで作られるものではない。
その、「社会的」なレイヤーをもう少し詳しく見ると、
最低限のレベル、比較検証してよいレベル、放置してよいレベルがある。
殺人NGなどが最低限、時代別のライフスタイルが比較検証、
幸福の定義等の属人的な思想信条が放置してよいレベルの代表例だ。
西洋哲学体系ではそれぞれを厳密に分類するのだろうが、
そんなことをしていてはあなたの人生が終わってしまう。
なので、わたしからの提案としては、
「煩わしい押しつけの常識は放置レベルのレイヤー」とまとめてしまい、
「生活に近い&変えてみること自体を楽しめそうなもの」を中心に、
真っ向から全否定することを「取りあえずやめる」ことに収束する。
人殺しをやめることを煩わしく思うのは、
追い込まれたテロリストや邪教の信者くらいだろう。
「○○しない人は馬鹿です」という残念な文面の発信は、
そのほとんどが信用に値しない。発信に責任がないからだ。
この手のものはそもそも距離を置くに限る。
AIに今日の仕事の振り返りの壁打ちを依頼する、
家計の負担を秤にかけたうえで投資ポートフォリオを変えていく、
主催者の思想が相いれないならグループからは一時的に脱会する、等々。
「ライフスタイル」に集約される部分もあるが、
あなたに流れ込んでくる「常識」を装った情報の波は、
ほとんどを受け流し、残ったわずかなものだけ手元に残し、
気が向いたら採用する程度の接し方で丁度よい。
「常」識だからといって、いつも最新にアップデートする必要はない。
少なくとも、わたしはこう考えている。
結び
言い訳がましいが、本エントリーは世捨て人を推奨するものではない。
あまりにも空虚な「常識」が蔓延することへのアンチテーゼであり、
未成年へのSNSを規制する考えと少しだけ親和性のある、
わたし個人の考えを述べているに過ぎないものだ。
常識との付き合い方の一例と受け取っていただきたい。
あなたは、「常識」に疲れてはいないだろうか?
まわりに、声の大きい課長クラスの人がいないだろうか?
その人が抱えるグループから少し遠いところにいないだろうか?
大多数に従うことだけが唯一の解ではない。
グループの理論は確かにあるが、今生き残れているならばまずは大丈夫だ。
どうせ5年もすれば変わっていく。
その流れの中で、採り入れてもよさそうなものを探り、
周りから少し遅れる程度で良いから実際にやってみて、評価する。
常識との接点は、このくらい緩くて良い。

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