誇張表現への警鐘:余計なものを買わないように

ネット広告がこうなるのは仕方ないが、
身近にも増えてきているので、思考の整理としてしたためた。

生きるために必要なものは少ない

衣・食・住とそれを支えるための資本。
付け加えれば、それらを手に入れるための生活圏の情報。
生きるために必要なものは、この程度である。

セール品の情報はありがたいが、究極的には無くて良い。
行きつけのスーパーで、たまたまやっているセールにありつければ十分だ。

わたしはミニマリストではないが、
余分なものを持たないで生きられるのであれば実践したい側だ。
サバイバルの能力がないから、資本主義社会に沿って生きているし、
それを支えてもらうために税金も払っている。

そうやってささやかな生活に幸せを見出して、
心穏やかに生きていきたいのであるが、社会はそうさせてくれない。

とにかく、やたらと現状を変えるよう急かされる。
そのための情報や消費財を買うよう促される。

インフルエンサーはあなたの人生を知らない

誰かの何かの役に立つことは、
もちろんわたしが社会的に負う役割である。
それについて反論はないが、とにかくプラスαを求められる。
その枝葉の要求が、とにかく煩わしい。

近所のスーパーに行くだけでもタイムセールで急かしてくるし、
インフルエンサー推薦とか言って謎の本が本屋に山積みされている。
そういうものに食指は動かないが、目に入ってしまい、疲れる。

広告宣伝は今に始まったものではないのは承知しているが、
どうもここ最近、「これをやらない奴は馬鹿」のような
変な「煽り」が入るようになり、これが一層気持ち悪い。

広告の向こう側の良くわからない奴が、
わたしの人生の価値を何で決めることができるのか。
そんな奴に投げ銭することも、わたしには理解が及ばない。

アイドルの駆け出し時期から密着させて信者にする商法もあるようだが、
そうやって有名になったアイドルがあなた個人に何か還元するとは思えない。
「恩返し」のコンサートで、更なる搾取に遭うのが関の山では?

多少、冷笑じみていることは承知している。
しかし、麻薬的な高揚を一時的に得るだけの活動に、
あなたが苦労して稼いだ資本を投下することの意義があるのか、
少し落ち着いて考えるタイミングはあって良い。

意味を見出すなら身近なものに

本当にいるかどうかも分からないものよりも、
近くにあるもの、すでに持っているものに感謝し、
心の充足を図るべき、というのは私の意見である。

宗教的にのめりこむことは危険ではあるが、
わたしの場合は近所の神社に定期的に挨拶することを習慣としている。
何を願うわけでも、何かの会合に参加するでもなく、
ただただ、挨拶できることに感謝する。

新しいものを買うなら、その前に不要なものを1つ手放す。
広告に踊らされてあれもこれも買うことはしない。
買いすぎてしまったのならば、しばらくは控える。
(わたしは保存食を多めに買う場合がある)

日々、のらりくらりと生きていると感覚が鈍りがちだが、
わたしが今日拝んだ朝日は、多くの人が望んで叶わなかった朝日だ。

ヒトは日々生まれ、その一方で死んでいる。
そんな簡単な事実すら、濁ってしまうことがある。
だからこそ、身近なものを、大切にすべきだとわたしは考える。

結び

情報へのアクセスは、現代人の特権だ。
しかし、溢れすぎている。

多すぎると、その中で競争が発生する。
そうなると、勝つために手段を選ばない不届き者が出てくる。
単純な話だが、受け手になるとそれが見えにくくなる。
だから、その薄汚い手法に乗せられてしまう。

わたしは、欲しいものがでたら、それが本当に必要なのか、
期間を置いて3回考えるという手法を採用している。
考えることの手間もプロセスに含め、余分な買い物を防ぐ仕組みだ。

面倒さが増えれば、人はその行動をやめる。
ご参考となれば幸いである。

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