数値化できる条件で判定でき、
出力もパターン化されている場合においてのみ、
AIは人間の業務を代替する。(とわたしは考えている)
料理・アカデミア・機械設計などを筆頭に、
責任を伴う判断においてはAIは単なる電卓だ。
途中で使うツールであり、最終的な出力主体とはなりえない。
わたしは、AIの発展を盾に努力を放棄する人が苦手だ。
この、極めて個人的な感情を書き殴ったエントリーである。

知識(結果)の提示は思考を弱らせる
学習は模倣である。
全くの無の状態からオリジナルは生まれない。
世に出回る優れた技術や論理は、参考となるものが背景になる。
「一番最初は無から生まれた」などという屁理屈はここでは話題にしない。
なお、簡略化のために以降はアウトプットを「作品」と表現する。
作品を世に出す強力な第一歩は、その当事者の強い動機だ。
既往の作品に感銘を受け、自分でもこのような作品を出したいと願い、
模倣を繰り返し、時には理論も学び、暗黙知的に知見を集約していく中で、
その人の独自のものが積み重なって作品が出来上がる。
言葉にすれば簡単に見える、この「繰り返される模倣」こそ、
結果を生むための深い体系を本人の中に創り上げる崇高な儀式だ。
わたしたちが目にする結果としての作品は、この深い体形に支えられている。
なので、わたしは自分の理解や解釈が及ばないものでも、
安易に芸術作品や文芸作品を批判しないようにしている。
もっとも、引用ばかりで自分の考えがまるでないようなビジネス本もあり、
それについては(申し訳ないが)専門家にしては浅いと感じてしまう。
話を戻そう。
スナック感覚であっさり出てきたAIの回答を読む行為だけでは、
深い学びを築き上げることは非常に困難である。(全く不可能とは言わないが)
ついでに言えば、間違っている危険性すらある。
AIの前身である機械学習での予測も、時々ぶっ飛んだ値が出る。
身体に刻み込む儀式を経ずに得た単なる「答え」には、
その瞬間だけ当事者を満足することしかできない。
3分後には忘れている可能性すらある。鳥頭だ。
そう、安易なAI依存は鳥頭を助長する。
自分の頭で考えない・悩まない状態は、思考機能を喪失させる。
運動しないと寝たきりになるのと同じだ。
検索するのもいい。文献を参照することも構わない。
AIに導入としてのヒントをもらうのも結構だ。
だが、その先はわたしたち自身が考え・決めねばならない。
この営みを否定することは、馬鹿を自称することと同義であり、
そういった人間からAIに駆逐されていくと覚悟すべきだ。
努力の否定は人間性の放棄である
わたしは、足るを知ることが重要と考えている人間だ。
比較的物欲は少なく、資本主義とは少し距離を置いている。
なので、命を懸けるほどの働き方はしない。
しかし、やれることはやる。
否定的に物事を見つめて動かないでいることは、誰でもできる。
そんな行為に没頭するほどには落ちぶれていない。
自分とまったく関わりがない人に対して、
わたしは責任を感じる必要はない。それはあなたも同じである。
わたしのことを気に病まなくてよい。
関係がないからこそ、積極的な支援は求めないが、
無責任に批判することも否定されて当然である。
あなたも、わたしの知らない何かについて努力をされているはずだ。
残念ながら、わたしはこの文面を通じて陰ながら応援するのみだ。
しかし、AIに駆逐されそうな冷笑系の人間は、
そのあなたの努力を無責任に批判したり否定する。
話にならない。
あなたの努力が、誰かを傷つける結果になるならば、
確かにその行為は注意されるべきである。
ポンジスキームに加担するなどが典型例だ。
では、あなたが英会話を勉強することは批判されるべきだろうか?
洗練された自動翻訳機能があるのだから意味がない?
相手の言葉に直接応答できることの方が良いに決まっている。
批判という行為は、表裏一体だ。
批判するなら、批判される覚悟もセットだ。
それを放棄して、陰から攻撃など、まともな感性ではない。
この点において、わたしはSNSというフィールドが苦手である。
努力は、たとえそれがこちらの期待した成果にならなかったとしても、
一方的に批判されるものではない。そのような態度こそ批判の対象だ。
努力とは、AIを使う土台である
プログラミングを例にとる。
わたしが多少知る分野として、機械学習を挙げよう。
機械学習は、分析・予測したいデータがあれば完結するものではない。
データの欠損を見つけて対処する前処理が必要で、
そもそも予測対象(目的関数)を正確に把握しないと始まらない。
場合によっては、追加の変数を検討することも必要だ。
こういった知識は、私がこれまでに学んだから書けるものだ。
確かに、AI様に「機械学習のステップを教えて」と打てば、
恐らくこれよりも細かい内容が得られるだろう。
しかし、知識がないとそこで止まる。
出力のままコピー&ペーストを繰り返すだけになる。
無駄な変数に当たりをつける選球眼も、
結果の表示を微調整するためにコードをいじる知見も、
どこまで正解に迫れたかを競い合う向上心も、
土台となる知識がなければ決して得られない。
ワインの調べものをするにしても、自分で飲んだ経験をもとにすれば、
それに応じた新たな知識の探索につながるだろう。
「おすすめのワイン」のような浅い聞き方では、
とりあえず文字列がたくさん出てきて、満足するだけで終わる。
プロンプトエンジニアなどという言葉があるが、
これも結局は自分が取り扱う題材についての知識が前提になる。
知らないことは聞けない。「ざっくり」の先に進めない。
プロのデザイナーが現場に聞き取りに行くのはこのためである。
冒頭にも書いたが、AIは進化した電卓に過ぎない。
複利の意味が分かっていないと金融電卓は使えないし、
高校数学を履修して初めて関数電卓も意味を持つ。
これらと同じで、AIも対象についての知見を持って初めて、
まともに使えるツールとなる。ただそれだけの話なのだ。
そして、そのためには知る好奇心に裏付けされた学ぶ努力が要る。
この努力を否定してAIに全てを委ねようという姿勢は、
電卓を適当に叩いて遊んでいる幼児と同レベルであることの自認と同義だ。
結び
知識は、「知っている」という状態に到達した後は、
「使える」レベルに持って行き、他の知識とも「つなげ」、
そうしてその人独自のものに昇華させるものである。
あなたは、どのような分野で普段活躍されているだろうか?
その分野の知識で、誰かに教えられるレベルのものをお持ちだろうか?
新しい何かの勉強で、既視感があるものを見つけただろうか?
一つ一つの積み重なりで、オリジナリティが作られる。
これは、一朝一夕で発現するものではない、積み重なりの結晶だ。
少年マンガのような、瞬間的なご都合主義は無いと認識すべきだ。
鍛錬もしない人間の主張するオリジナリティは、無秩序なわがままだ。
○○世代などという言葉では片付かない、無責任の寄せ集めであり、
あなたはそんな言葉を真に受けなくてよいし、そもそもそんな暇はないだろう。
長い時間スパンで身体的に知見を蓄える行為を、
AIに安易に模倣されないあなた自身の集大成のために、
諦めず・腐らずに進めていってほしい。


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