人間は、わたしも含めて歳を重ねる。
その一方で、実はそこまで成長していない。
小中学校の頃に、校則を理不尽に感じ、
「そういう法律があるのか」と楯突いたことはないだろうか。
そして現在、組織内の既往のルールに不備があり、
「運用の前に規定を整備しろ」と思ったことはないだろうか。
ルールがカバーしない「余白の領域」では、我々は試されている。
その想いをここに書いた。お付き合いいただければ幸いである。

ルールは基本原則
先に断っておく。
このエントリーは、「ルールは破るものだ」というものではない。
わたし自身、このような考えは持っていない。
ルールを破ることは、他の人に不便を押し付けることだ。
ごみを路上に放置すれば、風紀が悪化し、治安が悪くなり、
その道を歩く人を危険にさらす。簡単なことだが、忘れられやすい。
ポイ捨ては不法投棄であり、法律や条例上でも禁止事項だが、
法律ではカバーしていないルールも存在する。
分かりやすいところが教育機関での校則だろう。
校則には、一定の理不尽があることは先に触れておく。
学校指定の衣服を身に付けなければならないなどは、
突き詰めれば表現の自由の侵害とも言えてしまう。
しかし、いや、だからこそ、そのルールは「最初は」守る必要がある。
ルールから外れたい気持ちもある上で、わたしはそう思っている。
そうしなければ、ルール変更の俎上にすら入り込めないからだ。
ルールを守らない人間が、ルール変更を求めたところで、
それは単なる馬鹿のわがままとして流されるのがオチだ。
どんなに頭の達者な人が理屈を並べても、この構図は変わらない。
どんなルールでも、制定には背景がある。
その先人の努力を土足で踏みにじることは、
あなたの立場をひたすらに悪くする。
まず守り、限界があることを体感し、それを適正なルートで説明する。
ルールに対する意識は、かくあるものだと、わたしは考えている。
ルールを求める思考放棄
さて、組織のガバナンス上、一定のルールは確かにあるべきだ。
ボランティアの寄せ集めと異なり、目的を持つ組織には責任が発生する。
責任を果たすためには、規律ある行動が求められる。
暴力団が農地を運営しても、褒める人はまずいない。
その一方で、責任を回避したがる人も出てくる。
「言ったもん負け」の風土で、新しい動きを嫌う状況は理解する。
そんな思いを持つくらいなら、その組織から出ていけばよいとも思うが。
責任とは、判断に責任を持つことである。
また、判断の結果として良くない結果が出れば、
リカバリーまで対応する実行力である。
責任を回避するとは、自力で判断しないことだ。
そういう人が、無駄にルールを求める。
ルールにないことを、したくないのだ。
責任を個人に負わせる社会が悪い、と言うのも簡単だ。
結果、無駄なルールが多くなって、苦しむのは当の本人なのに、
その瞬間の快楽だけで判断するから、長期的な視座がない。
ちなみに、守らないと人が死ぬ、JISやASMEといった規格や、
それらをベースに作られた設計基準などは対象外だ。
本エントリーは、会社で言えば就業規則の人事・総務・経理系の話をしている。
法律ですら毎年改正しているくらいだ。
会社の規則だって不完全なのは当然だ。そもそも、人間が不完全だ。
ルール制定当初は想定していなかったことは容易に起きる。
大事なのは、その時どう動くか、だ。
余白の中でも、ルールに準拠し、共有する
想定外の余白の領域には、大きく2つの解釈がある。
1つは、ルール欠陥を責める材料。
もう1つは、節度ある自由が許される機会。
責任を回避する人物は、1つ目の解釈で終わる。
2つ目の解釈で動けるか。考えていただきたい。
ルールとは、想定外に弱いように見えて、
よく見渡すと他の箇所に取っ掛かりが存在する。
大きな組織になるとルールブックが分厚くなるが、
昨今のAI様の力を借りれば、取っ掛かりを探すことができる。
この時に大事なのは、特例対応でも好き勝手にやらないこと。
仕方なく他のルールを準用していることを示すこと。
そして、「こういう追記があると良い」と提案すること。
提案もなしに、ルール欠陥を吠えまくる狂犬なぞ、
誰も手合いにしたくない。わたしだって、面倒な人間からは距離を置く。
明文化されていないルールは、そこだけ切り取ればただの欠陥だが、
調べられる範囲の背景を揃え、たちまちの運用を共有し、
「こんな風に整理できそうだが検討の余地はあるか」を提示する材料だ。
この努力すら放棄し、ルールを作れ・ガイドラインをよこせ、は
あまりにも頭がお花畑すぎる。そんな連絡が来た瞬間、やる気が失せる。
ルールにない領域で、既存の枠にどの程度寄せられるか。
枠外の部分について、双方が納得できる運用を示せるか。
少し先を見越して、枠外を枠に入れる提案まで作れるか。
それらを利他的な精神でやりきり、双方の関係性を深められるか。
ルール先行の経済圏には限界がきている。
人と組織と事象に境界線を引きすぎたのだ。
だからこそ、ルールの限界を前提に、しかし、準拠する姿勢が必要なのだ。
少なくとも、わたしはそう考える。
結び
社会のルールに対し、法律を求める屁理屈は、
巡り巡って屁理屈を吐いた本人を苦しめる。
好き勝手やった結果、ガイドラインの厳密化につながり、
やがては法律になるという流れを知らないとお見受けする。
身近な例では、自転車の利用に関する法令がこれに当たる。
法律にないから、と爆走して事故を起こす馬鹿が増えたから、
ヘルメットだの、並走禁止だの、ながら運転で青切符だの、となっている。
…もう少しすると、割と真面目に免許制になるかもしれない。
「マナーからルールへ、そしてまたマナーへ」という標語を見た。
仕方ないから一度罰則化し、ちゃんと浸透したら取り下げるという意図だ。
これもどれくらい受け入れてもらえるだろうか。今は信じるのみである。


コメント