思い出と経験の狭間

技能伝承のタスクを担当したことがある。
当時何となく感じていたことを言語化してみたので、
記録として共有させていただきたい。

技能伝承は非効率

わたしの感想だが、技能伝承の活動は効率が悪い。
感覚的には、10%でも得られるものがあれば大成功の部類だ。

経験を授けてくれる偉人に限らないが、
人は往々にして話したいことを話す。話すべきことではなく。
話したいこととは、「インパクトが大きいと感じること」なので、
基礎の理論をすっ飛ばした、最終的な現場局面であったりする。

それ自体にも意味や含蓄はあるのだが、
基礎理論が確立できていない状況の人間が聞くと、
失敗学に毛が生えた程度の印象で終わってしまう。
話の背景にある過程に思いを馳せることがまず不可能だ。

だからと言って、その人が登壇せずとも成立する基礎的な講義まで、
技能伝承の活動に含めるほど現代社会は暇ではない。

最近は60歳を超えても処遇が維持される企業も増えている。
高給取りを誰でもできる仕事に割り当てるのは、贅沢な愚行である。

伝えるべき「経験」が「断片的な思い出」?

技能伝承の活動では、企業活動の観点で有意義な情報を、
特定の人から次の世代の人に渡すことが目的だ。
文書化できればなおよい。

何を当然なことを、とあなたは思われるだろうが、
「企業活動の観点で有意義な情報」を引き出すことは、想像以上に難しい。

日々雑務が舞い込み、体系化されていないあなたの仕事のすべてを、
手順・使用システムや様式・前後の作業との関係・例外の有無まで整理し、
まとまった文書にして定期的にメンテナンスできるだろうか?
自信をもって「できる」と言えるのならば、超人である。
少なくともわたしは、厳しい。「できる」とは言いよどむ。

普段の業務の体系化ですらこの有様なのだから、
時間の経過という障害(≒記録の劣化)が加わった技能伝承など、
体系化はまず見込めないとわたしは考える。

付け加えれば、偉人が話す断片的な記録も、
その人の意識や記憶、感性というバイアスがかかっている。
 「こういう話し方は営業で嫌われる」
 「あの装置の運転で想定外のケースをやってしまった」
こういった知見が増えていくこと自体は有意義であるが、
その人固有の失敗を一般論として盛っている場合もある。

余談であるが、わたしが担当した当時、
登壇した人は巨大なタンクを凹ませた話をしてくれた。
ありがたい話ではあったが、台風(低気圧)が来ていた時の話で、
設計に関する知見とはならなかったのを記憶している。

必要なのは知識と感覚の結合

現代に生きるわたしたちは、情報へのアクセスに恵まれている。
分厚い技術文書はデジタル化され、検索が容易にできる。
法律の解釈も法律事務所のHPで概要が紹介されている。

また、計算・計測ツールにも恵まれている。
対数の計算は計算尺なしでスプレッドシートに表現でき、
3次元計測器に放り込めば計測の手間を相当程度に省ける。

こうなってくると、「知見を持つこと」の価値が相対的に下がる。
調べればわかるよね、という考え方だ。

私はこの考え方に明確に反対する。
頭からすぐ出せる・使える状態で知見を持つことは有用である。
また、手先を動かすことで人類が発達してきた歴史がある以上、
実物に触れて得た経験はあなたを確実に豊かにする。

知識を馬鹿にする人ほど、記憶力が悪い。(注:私見です)
そういう人ほど、頭でっかちでやらない言い訳が達者だ。(同上)

知識と経験を、個別のものとして習得させようとするから非効率になる。
経験とは、「事象に対する感度をどの程度持つか」の結果である。
であれば、感度を高める実体験こそ必要だ、というのがわたしの意見である。

知識は、実体験の前の導入であり、実体験後の復習でもある。
両者をらせん状につなげていくことで体系が深まっていくとわたしは考える。

結び

このご時世に、注目を集める体験型アトラクションが出ているのは、
知識を軽視し、経験に乏しい状況が生まれやすい現代に対する、
一種のアンチテーゼなのではないかと思うことがある。

15秒で目まぐるしく移り変わる動画をありがたがる前に、
できそうな手芸を探してみる、というのも良い選択肢となる。

金がかかるからもったいないと思うか、
有効な投資と考えるかでも緩やかな分岐点となるだろう。

わたしの場合だと、購入すべきか悩んでいる調理器具がある。
使いこなせない結果になるならば、時短調理を求めすぎて、
不器用さを助長する生活スタイルにあることを思い知る契機にもなる。

思い切って買ってみるか…。

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