キャリアは見せずに育てるもの

盛ろうが盛るまいが、あなたのキャリアはあなただけのものだ。
誰かと比べたり、称賛を求めたり、共感してもらうものではない。

今日と明日を比べて、進めているか。
止まっていたとしても、突破口を絞り込めているか。
そして何より、そのことに満足できる一日であったか。

キャリアを、キラキラした発信とすり替えて垂れ流し、
だまそうとしている風潮へのアンチテーゼとしてしたためた。

メディアは欲望増幅器に過ぎない

情報収集をするうえで、メディアにアクセスすることは仕方ない。
本でも動画でも、基本的には同じ構図だ。

だからこそ、そこに映し出されている「成功例」には注意したい。
そこには、たまたまうまくいった例だけが、
その背景に注がれている莫大な量のリソースも、
グレーゾーンに手を出してしまっている背景も、
何かに誘導しようとしている真の魂胆すらも、
情報の非対称性に潜めた「切り抜き」として飾られている。

特に、最近の情報発信は、信者づくりの導入があり厄介だ。
こうして成功したけど最初は負け組でした、とか
世間から誤解されて苦しんでいる時期があった、とか
だからこうして勇気を出して公表することにした、とか
よくもまあそんなうわべを誇らしげに語れると思う。

スポンサーのコマーシャルは露骨に出てくるから分かりやすいが、
すべての番組は、あなたやわたしの欲望を刺激する構造を持つ。

衣食住がそろっていて、仕事のための知識さえあれば、人は生きられる。
「それ以外の何か」は蛇足だ。必要ない。
しかし、それではスポンサーは私服を肥やせない。
だから、「それ以外の何か」にそれらしい理屈をつけて売り出す。
それを持たないことがデメリットであると錯覚させてくる。

ニュースですら、疑え。
スポンサーが出資しているのは、自社製品を買わせるためだ。
サブリミナルが番組中にあったとしても不思議ではない。
通販の方が目的がはっきりしていて良心的ですらある。

見せることを、躊躇え

メディア様が成功例をキラキラにして語るから、
そのような発信を自分からすることが当然と勘違いする。

だから、背景の薄い配信が氾濫する。
趣味なら許せるが、大半は違う。
肥大化した承認欲求と金銭欲の成果物だ。

そこに付いた「いいね」にどれほどの価値があるだろうか?
付けた人は、次の刺激を探しにすぐに消えてしまう。
より強い刺激を求めて、過激な演出が増えていき、
社会が不安定になっても構わないと、本気で思えるだろうか?

こんなことを書くくらいだ。
わたしは、ぶっ飛んだ配信は毛嫌いしている。
親切な情報発信に見せかけた、他人を見下す系も苦手だ。

自分の人生をうまくいっていると思いたい気持ちまでは、分かる。
周囲の人間にもそう思われたい気持ちも、ギリギリ分かる。
その上で、「そう思われること」がもたらすメリットがあるのか、
あったとして5年後の自分にどれほど寄与するか、考えてほしい。

「そう思われこと」の演出のために、余計な出費をしていないだろうか。
スポンサーの宣伝にいいように使われて、自分を見失っていないだろうか。
そうしてカネばかり追い求めて、時間リソースが侵食されていないだろうか。

「見せること」はプライバシーを奪われに行く行為だ。
芸能人を見ていれば当然にわかることだろう。
自分の人格を、配信先の得体のしれない人物の欲求に合わせ、
そのための手配に自分のすべての時間を奪われる。
しかも、その権利を得るための血生臭い戦いも待っている。

そんなのは、わたしはご免こうむりたい。

自分のことを大して知りもしない・顔も知らない誰かのために、
しかも、その人の一瞬の満足を満たすためだけに、
取り戻しのきかない時間リソースの大部分を充てるなど、
当たらない宝くじを買ってワクワクするよりも疲弊する行為だ。

光るな、潜め

同期に昇進を先に越されたり、
ちょっとした有名人が職場で楽しそうにしていると、
今いる場所ではないところで活躍することが、脳裏にちらつく。
近いことを、あなたも経験済みだろう。

その誘惑に流されると、メディアの思うつぼだ。
この感情に負けると、より一層、搾取される。

昇進だのキャリア実現だのは、
運の要素が相当に関わってくる産物だ。
タイミングが揃わなかった。ただそれだけ。
揃うタイミングまで、できることをやる。ただそれだけ。

それを放棄して、瞬間的なスポットライトを用意しても、
根本のところで準備ができていないから、長続きしない。
せいぜい、他人の真似事をして終わるのが関の山だ。

「神は自ら助くる者を助く」とは西洋のことわざで、
困難に対して逃げずに立ち向かうことの美しさを説くものだ。
「自ら助くる」を拡大解釈すれば、キラキラ配信もその1つなのだろうが、
このことわざの本質は努力や継続の必要性にあると考えている。

腹持ちの悪い、瞬間的な快楽物質など要らない。
そんなもののために、みかじめ料を払うことも馬鹿げている。
「今だけ」という気持ちを少しだけ押し込めて、
あなたの机の上にある仕事でどれだけの人を喜ばせられるか、
考えてみてはいかがだろうか。

結び

偉そうなことをひとしきり書いたが、
苦しむのではなく、仕事を楽しんでできた方が良いに決まっている。
そうなると、「どのように楽しむか」が次の論点になる。

「楽しめない」のは、なぜだろうか。
疲れているから?ではどうして疲れるのか。
時間がかかるから?それはどうしてだろうか。
知識の問題か、プロセスの問題か、決裁の問題か…。

「なぜ」は繰り返しすぎると自分を苦しめる狂気の言葉だが、
「どうすれば」の視点で使える場合においては頼もしい。

知識がついてくれば、改善点の視野が広がる。
改善を提言できる程度の関係性ができていれば、裁量も増える。
ルールは当然守りながらだが、その中で自由にできることは、
バランスの取れたキャリアの楽しみ方だと、わたしは考える。

あなたのことを知らない人のキラキラなど、あなたの人生と無関係だ。
そんな虚業に振り回されるよりも、自分が施せる善行がどれだけあるか、
それをどれだけ増やせるか、振り返る時間を持っていただきたい。

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