誰のための「常識」か。

「そんなの常識だろ」という言葉を発したくなる時はある。
その逆もしかり。わたしにこの言葉を言いたい人も存在する。

「常」という言葉が含まれていながら、
こんなにも揺れ動く無責任な言葉も珍しい。
せっかくなので、常識全体に文句を言おう。そんな記事である。

常識の範囲の曖昧さ

「こんなの常識だ」と思う時、
どこまでで通用する常識なのか、は考えたい。

日本全体で通用するのか、
都道府県のレベルなのか、
あなたが働いている組織内だけの話なのか、
親しい数人の間だけのものなのか。

今、わたしがここで「中庸な生き方こそが最高だ」と言ったところで、
それが万人に当てはまる保証は、残念ながらない。
どこまで行っても、わたしの考えは、わたしの考えだ。
もちろん、誰にも全く響かないと凹むつもりもないが。

だからこそ、誰かに何かの考えを伝えるのは慎重になる。
それがその人の思想の根本に近いものであればあるほど、だ。
そこを侵害することは、人格の否定である。

「人権」という言葉も、常識の地域性に囚われる危険性を持っている。
明治時代の大日本帝国においては、人権は天賦人権であり、
今上天皇のお恵みとして授けられているものとして定義された。

片や、国連様が21世紀に掲げる人権はユニバーサルな前提を持たせており、
地域性や政治状況に関わらない尊いものとされている。本当か?
人種差別上等の欧州発祥で、こんな「常識」を作れるとは思わない。
詳細なリサーチをしたわけでもあるまいに。

広い言葉ほど、受け止め方に幅がある。
そこに万人の共感を持たせるのは限りなく不可能だ。

押し付けられる「常識」

「こんなの常識だ」と思う時、
押しつけの意図が一定程度含まれる。
伝える対象が馬鹿なことをしている前提に立っている。

もちろん、他人の財産を理由もなく侵害してはいけないし、
ましてや刃物で首を掻き切ることが無条件で正当化されることはない。
戦争下では正当化されるのかもしれないが、
狂気の状況を平時に当てはめる極論なので今は議論しない。

極論を振りかざす以上に気を付けたいのは、
常識を振りかざす時に、「自分の都合」という極めて限定的なエゴを
動機として他者をコントロールする意図が多いことだ。

身内の間や、未就学児へのしつけで「常識」を使うのはまだ許す。
わたし個人の感覚として、大衆に呼びかける時「常識」は暴力的になる。
マスメディアの発信が最たるものだ。十分に注意いただきたい。

押しつけの意図が潜む「常識」は反感を生み出す。
しかも、特定の層・グループだけに都合の良い「常識」だ。
特定層とそれ以外との分断を意図的に作り出す。
わたしが、「常識」という言葉を妙に嫌うのもこの面が大きい。

ブログを打ち込んでいるわたしが偉そうに言えたものではないが、
SNSではびこる常識論争など、まさに共感の押し付けを引き金にしている。
「男女」のように、主語を大きくしていることで釣り針も無駄にでかい。
…顔も見えない、Botかもしれない相手と口論するのは無駄じゃないか?

「常識」を押し付けられそうになったら、受け流せ。
あなたにとって、多少のプラスがある場合に限り、採用しろ。
バックグラウンドが違う者同士、前提が違うことを前提に考えろ。
そこのくらい常識と距離を置くことが、わたし個人的には健全だ。

時代の都合としての「常識」

大多数に向けて発信された声明(新法とか)は、
時の権力者や時代の雰囲気が振りかざす「常識」である。
10年もすれば違うものが蔓延する。

わたしのようなはぐれ者にとっては、これが煩わしい。
技術が進化することで暮らしの前提が変わることは理解するし、
受け入れるべきものは自分に還元する姿勢は持っているつもりだ。

しかし、「○○する人を優遇します」という形で、
それがさも当然のような顔をして眼前に来るのは耐え難い。

今までやっていなかったという面が大きいが、
わたしの生活を否定する文脈が見え隠れして、腹が立つ。
先述と同様、押し付けなのだ。しかも一過性の。

一過性である癖に、やらないことで異端とされる。
そんな有象無象が寄せては返す、この昨今の状況が面倒だ。
法律レベルからサブカルの細かいところまで、
常識と言われるものが現れては消えていき、
素性も怪しい人がそれを発信して悦に入っている。

敢えて申し上げれば、気持ち悪くて仕方がない。見たくもない。
すでにわたしはSNSから距離を置き始めている。

誰しもが、何かの第一人者になろうとしているのだろう。
その承認欲求自体は自然なものだとわたしは思うが、
不特定多数に押し付ける時、凶器となり得ることは理解いただきたい。

結び

理解してもらうのは難しいことを前提に申し上げるが、
わたしは公序良俗に即し、穏やかに生きているつもりだ。
不法投棄の現行犯を殴っても無罪ならばやるかもしれないが。

わたしの勝手なエゴはともかくとして、
「常識」が大多数の幸福を目指すものとして適切に発信されていれば、
そこには従う価値があるし、喜んで採用する意志もある。
反発したくなるのは、押しつけ・強制・排除の意思が伺えるからだ。

洗脳と隠ぺいを駆使した発信はやめてほしいが、
何を意図して、どのように検討して、どこまでの例外に配慮したものなのか、
くらいのプロセスまで開示した「常識」であってほしいものだ。

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