綺麗事への責任

言うだけなら正しい綺麗事は、無責任に発信できる。
それはSNSに限らない。学説だって同様だ。

言われる側の立場も考えてほしい。
そんな思いを整理した記事である。

文句を言うのも、理想だけ語るのも簡単

この世界は、文句であふれている。
上手くいかないことの方が人生には多い(とわたしは思っている)ので、
嘆きたくなる気持ちは理解できる。

また、この世界は不完全なシステムでギリギリ成り立っている。
どの国にも政治・経済で課題があり、過去の政策の後始末に追われている。
その状況を外から見つめ、ため息をつきたくなる人の気持ちも分かる。
そして、「こうすればいいのに」と提案したくなる老婆心も、まあ分かる。

しかし、そういう人々に限って、運用が意識の外にある。
思いつきで提案した制度が実際に回った時にどのような副作用があるのか。
世間で評判の良いシステムを検証せずに入れるリスクを、彼らは考慮しない。

狂気の沙汰とまではいわないが、ハイリスク・ローリターンの典型である。
検証が不十分な状態を無視し、組織全体に影響する施策を無計画に打つ。
予想しなかった悪影響が出た時、彼らはまた不満を繰り返すだろう。

現実を知らないという罪

学者と呼ばれる層ですら、時代とともに言うことが変わる。
技術や人文的な前提が変わっていくので当然なのだが、
それにしては節操がないように感じてしまう。

営利企業においては、特定の目的を持つ組織(営業とか)に属しながら、
学術的な活動に優先的に専念することは困難である。
会社にいて、金にならない趣味に没頭しながら給料をもらうなど、
図々しいにもほどがある。

そのため、組織の実情に対し、アカデミアは疎くなる。
企業と共同研究している学者様でも同様である。
本当に根本の部分の情報は営利企業ならば隠すし、
少なくとも情報入手のタイミングは遅れる。

この非対称性は、学説のクオリティに結果として現れる。
いつまでもバブル崩壊直後のサンプルだけで理論を構築したり、
パワハラとサビ残が裏で横行していることに目を向けずに
特定事業の大幅増益を成功のベースモデルとしてもてはやす。

「数理モデル」ですら同様である。
モデルに組み込まれた変数だけですべてを語れるならそのモデルは正しいが、
大抵の経済モデルは実情を説明できていないではないか。
挙句、例外を分岐させたり、何がしたいのかわからなくなっている。

知らないこと自体は罪ではないが、
知らない範囲を明示せずに発信することは大罪だ。
新しいことを発信するとは、それほどに責任を伴うのだ。
そこから逃げている以上は、その「新説」は信頼に値しない。

なので、わたしは本ブログにおいて「考え」だけを発信している。
学術的なことの発信などおこがましい。

だからこそ、謙虚に

綺麗事は、言うだけなら正しい。
運用まで落とし込んでの発信が、本来はあるべきだ。
そうでないなら、最低でもトーンは下げたほうが良い。

殺人犯を非難することは確かに簡単にできる。
その代わり、非難した結果まで引き受けること。
これが最低条件だ。

その「殺人犯」が冤罪だったら?
正当防衛の結果としてやむを得なかったら?
殺人犯の家族まで非難する資格は本当にあるのか?

「失われた30年」には学者の活動も影響したのでは?
インフレは日々の消費活動の結果なのでは?
街が汚れていると嘆くなら、清掃活動に参画すべきでは?

間違いに気づき、意見・発信内容を変えることは良い。
その際、過去の発信が影響を与えた範囲までリカバリーする。
そこまでやって初めて発信の責任を取ることになる。
できないのなら、余計なことは言わない。
マスメディア様にも実践いただきたい姿勢である。

結び

バタフライエフェクト、という言葉があるくらいに、
この世界は想定外の結びつきが多数存在する。
しかも、時間を超えて発現するために発見自体が困難だ。

だからこそ、世界は面白い。
深い意義を意識せずに続けていた活動が、遠くの誰かを元気づける。
あなたが続けている何かしらの活動も、この可能性を秘めている。

自分以外の誰かを動かすとは、本来そういうものだ。
積み重なり、深い体系があるものに、人は信頼を寄せる。
逆を言えば、瞬間的に麻薬的な熱狂を呼び込むムーブメントは、
麻薬中毒者が依存するだけで、信頼に値しない。

時間をかけることを軽視する時代だからこそ、
継続が生む価値をわたしは大事にする。
今やっていることに、あなたが不安を感じていたら、
「続けてみる」こと自体を有望な選択肢として検討いただきたい。

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