どのような組織でも、何かしらの方針に基づき施策が動く。
ここに対する、わたしの感覚を文字にした。
多少冷めた側の人間の考えとして触れていただきたい。

施策は届かないし、浸透しない
あなたが施策を真剣に考えている側であれば、
この見出しに近い感覚を既に持っているものと推察する。
営利企業であれば、営業利益を1円でも多くかき集めること。
NPOであれば、ターゲットが具体的に変化を起こすこと。
どのような組織でも、使命があり、その前線で日々励む人がいる。
そのような人に対し、安心して話せる風土を作っていきましょう、
身近なマイノリティに対して配慮をしましょう、という「施策」は
「ああそうですか」で通り過ぎる。
わたしも、綺麗事だと考える。
言うだけは簡単。ほとんどの人には関係のないこと。
そういった施策をやろうとすれば金もかかる。
また、具体的な制度を新たに作るときも同様である。
冠婚葬祭の身上申請システムでも、調達におけるルートの変更でも、
実質的に恩恵・影響がある施策は、多くの人には面倒だけが映える。
そして、今までの方法になぞる形であいまいな運用になる。
これらが積み重なると、施策を打つ側としては消耗する。
少なくとも、わたしは手間をかけたくなくなった。
「やりたいこと」と「やるべきこと」のアンバランス
このご時勢、やりたくないことを避ける風潮が強くなった。
皆がそうやっていたら、社会はつぶれる。
やるべきことをやっている人が、どんどん冷めていく。
支援が真に必要な人に対して、的外れな支援が飛び交う。
わたしの経験の範囲で例を出す。
人事部門では、制度の運用側と組織開発側はきれいに分断がある。
お互いの業務が重複しない。
これ自体は良いことである。効率化されている。
しかし、だ。
組織開発側は時として珍妙なことをやりすぎる。
社内コミュニケーションと称して、物好きだけが参加するイベントを強行し、
意味のある施策であると自画自賛・アピールし始める。
わたしから言わせれば、
線香花火を昼間の大空に投げ込むようにしか見えない。
どんなに好意的に見ても、高校生の文化祭だ。
大多数に届かない「文化祭」に大層な金をかけて、
自分たちだけが盛り上がって、やり切った気分をアピールしていれば、
そんなのに興味のない大多数はますます冷めていく。
その一方で、本当に作るべき制度の設計や運用を担当する側は、
そんなお祭りにかまけている暇などない。
大きな会社での制度変更であれば、影響範囲を考えなければいけない。
労働組合に対して説明が必要な施策だってあるだろう。
しかし、組織開発の勝手な動きのおかげで意図せず評判が下がる。
信用が低い状態で動かなければならないために、余計に手間がかかる。
そうなると、組織開発側に恨み節の一つも言いたくなるし、
少なくとも冷ややかに距離を置きたくもなる。
好き勝手に内輪のお祭りを打ちまくる連中のおかげで、
本当に必要なことに取り組んでいる側が割を食う構造があれば、
一般的には正論である綺麗事のバカバカしさに磨きがかかる。
好きなことだけをする、という割り切りには、
多くの犠牲が伴う可能性が相当程度にあることを理解し、
その責任を負うことも含めて動いていただきたい、
というのがわたしの小意見である。
お祭り騒ぎもいいけれど…
タイトルに書いた「祭りごと」も「政」も
読み方としては「まつりごと」である。
政治はお祭り、非日常。そういう根元がある。
しかし、繰り返すように、非日常で騒ぐことには責任が伴う。
内輪で騒いで勝手に盛り上がるのは結構だが、
それを見ている周囲の大多数には非常に馬鹿馬鹿しく映る。
ついでに言えば、わたしはお祭りが基本的に嫌いだ。
ぼったくりの屋台、まき散らされる騒音、酔いつぶれ、そしてゴミ。
自治体や運営団体としてはカネが入るから良いのだろうが、
そんな恩恵とは縁遠い側からすればただの公害である。
下手すれば蝗害(バッタとかが草木を食い尽くす害)の領域だ。
静かな夏も良いものだ。
トラブルの種を地道に掃除して、きれいな流れを組織内に還元していく。
本来であれば、このような活動こそ称えられるべきである。
結び
得意でないことをやりたくない気持ちは嫌と言うほどわかる。
やらずに済むなら、わたしだってそうしたい。
しかし、現実はそんなわがままは通らない。
特定の宗教で職業・役割分担まで決めているのは、
この点において統制を取るためなのかもしれない。
(負の側面もあるが)
苦手でも、やる。知識をためる。
きたるべきやりたい施策において、活かすために。
得意ではない業務に奮闘しているあなたに、
本記事が少しでも活力を届けられれば幸いである。


コメント