ダウングレードされた「公共」

自分の部屋での振る舞い・論理を、公共の場でも展開する。
そういう人が、少なくともわたしの体感では増えた。

何が起きているのか、考えた。
静かに怒るだけでは、勿体ない。
こう思う程度に、問題意識を持っている。

公共空間の“私物化”

わたし自身が目撃した事象で恐縮だが、
タブレット端末でイヤホンを使わず動画を爆音で垂れ流す人や、
オンライン勉強会で会話しまくるグループをファミレスで見かけた。
勉強会の方は、怪しいサプリの勧誘までやってのけていた。

わたしの感覚からすれば迷惑もいいところであり、
自分がやる可能性は全く想像がつかないことだ。

しかし、当事者はそれを平然とやってのけている。
尊敬などは全くしないが、その神経には驚く部分がある。
よくできたものだ。誇張抜きに、そう思う。

ファミレスに大層なドレスコードやテーブルマナーは無いが、
わたし自身、終始席にじっと座っての食事が家でできて初めて、
外食の権利を付与された教育を受けてきたこともあり、
阿鼻叫喚のキッズがファミレスで走り回ることが未だに度し難い。

わたしの怒りは、恐らくであるがこのような私的空間を、
何の配慮もなく公共の場に拡張している点から来ている。
公と私の境界線を、わたしは一定程度明確に定めるスタンスだ。

とすると、わたしからすれば糾弾の対象となる行為をする人も、
「ここから先は外出先ではやらない」というボーダーを持っているはずだ。
時代で価値観が変わる。公共空間に持ち込む行動の範囲が揺らいでいる。

これを、歓迎すべきか嘆くべきかは人によるが、
わたしの記事を読んでくださっているあなたは、
嘆く側の感覚をお持ちのことだろう。

注意というハイリスクな行為

昭和が良かったなどと言うつもりは毛頭ない。
昭和は、ダークサイドも多分に含んでいた時代であり、
パワハラやセクハラがへの法整備がなかった時代でもあり、
何より、生活インフラも満足になかった時代である。

その代わり、機能していたものがある。
他人が注意をすることが許されていた部分だ。
もちろん、耄碌野郎の言いがかりは論外だ。

当時の価値観・常識に照らす範囲であるが、
悪いことをすれば(時に暴力も伴い)他人でも注意した。
悪いことがその場で正される機能が社会に実装されていた。

ところが、令和の時代、その機能がなくなっている。
意味不明な逆ギレをされてSNSに顔出しで晒されたり、
下手すればぶん殴られる可能性だってある。
こちらに大義がある場合でも、認められないリスクもある。

また、私的空間を公共に運び込む人が増えている一方で、
個人主義が台頭し、他人との境界が濃くなっている。
「私は嫌な思いしていないから」という感覚だ。

傘を横に持って歩いている人も同類だ。
その傘の先端が、階段で後ろの人に刺さることが、分からない。
こういう人も、注意したところでこちらにはリスクしかない。
時間を無駄にかけるし、逆ギレされて傘で刺されるかもしれない。

とてもそんなことに、わたしは時間をかける意義を見出せない。
そうなると、個々人が他者に対して無関心・無気力になり続け、
「公共の場は皆で使うもの」という認識が崩壊し、
「皆で使うのだから丁寧に」という感覚も喪失する。

良心に丸投げされた公共マナー

わたしは、自分が保守的だということは自覚している。
新しいことは必要だ。しかし、ガバナンスも重要だ。
道具が進化するなら、それが使われる場・使う人も
アップデートされて然るべきだ。

電動キックボードが典型例だが、
単に法律に従っていれば良いというものは存在しない。
法律は基本的に時代遅れで、抜け穴もある。

それ故に、令和の時代の公共マナーは、
今のところ個々人の良心に強く依存している。
極めて日本的な、「空気」を読むことに頼り切っている。

だが、これも崩壊しつつある。
野蛮な国の人間は、そんな空気など知らない。
「食うか食われるか」の生き方をしてきた人間が、
ゴミを捨てることが迷惑であるとは、そもそも考えないし、
畑の作物は、食べて当然と信じている。

サービスを提供する企業も、ここに踏み込めない。
法律に書いていないことを、強く求められない。
就業規則ですら、法律より厳しい部分には弱い。

そうなるともう、誰にも公共を守れない。
これからも、公共空間はダウングレードされていくだろう。
あくまでも、私の価値観で測る場合であるが。

だから、持ち込まない

赤信号を、皆で渡ることには明確に反対すべきだ。
誰かのアホな行為は、あなたのルール逸脱を正当化しない。

コントロールが効かないマナーの逸脱は見ていて苦しい。
怒りもこみ上げるし、本当ならば止めたい。
しかし、リスクが高すぎる。

だから、あなたができることを深く実践しなければいけない。
誰かに自慢などしなくてよい。承認欲求に心を殺される。
義憤にかられた行動は不要だ。あなたが悪とされてしまう。

あなた自身が、「公共のマナー」を実践する。
ただ、それだけで良い。

言葉にしなくても、丁寧な人は周りからありがたがられる。
ファミレスの例で言えば、ホールスタッフはあなたに心の中で感謝する。
目に見える形の即効性を求めるのも、令和の価値観の弊害だ。
すぐに効く薬の方が副作用が怖い。「じっくり」が良いのだ。

余分なものは持ち込まない。
極端に走るのではなく、中庸で十分だ。
誰かの役に立っているだろう程度の感覚で、生きていきたい。

結び

鏡の法則を厳格に適用するならば、
マナー逸脱を多く見ているということは、
わたし自身も社会的に良くないことをしていることになる。

それは服装かもしれないし、
時間の使い方かもしれないし、
親戚との付き合い方かもしれないし、
仕事との向き合い方かもしれない。

すなわち、良くないマナーを目撃した時というものは、
自身の身の振り方を振り返る機会と捉えることもできるのだ。

自分に厳しすぎるのも極端に走ると危険ではあるので、
直近の数日に思いをはせ、改善できるものがあるかを考えるくらいから、
実践に移していくくらいが、バランスも取れている。

瞬間的な怒りを感じたら、試してみていただきたい。

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