世の中には、やったほうが良いことがあふれている。
勉強はしたほうが良いし、絵も描けると表現の幅が広がる。
運動すれば健康寿命に貢献するし、酒も飲めれば飲み会は安心だ。
世の中のビジネス本のことをきれいに実行できれば、「成功」は近づく。
…が、現実はなかなか実践まで至らない。
やり始めても、息切れを起こして元に戻る。
そういう状況になっても、自分自身を責めないでほしい。
その一心で、このエントリーを書いた。
お付き合いいただければ幸いである。

現代人は既に数多の実践に飲まれている
世の中の「成功者」は語る。
実践をしない奴は愚かで、自ら破滅の道に進んでいる、と。
わたしが語ったところで説得力はないが、
たまたま成功できた人が偉そうに語っていらっしゃることに、
たいして意味はない。もちろん、行動できたことは称賛に値するが。
前提が抜けているのだ。
現在の社会情勢と、「成功者」が苦しんでいた時のものは、
はっきりと別物だ。世の中の常識は5年くらいで移り、替わる。
この前提を無視して、「私と同じようにやれ」は乱暴すぎる。
そもそも、現代人はネットの普及によって拡大した利便性に対し、
常に取捨選択を迫られている脆弱な状況だ。
何でもすぐにできるから、と詰め込みを強制されている。
結果として時間的な余白がなく、かといって断捨離もリソースを使うので、
わたしたちは自分で思っている以上に身動きがとりにくい。
社会人になると本が読めなくなる、という問題提起もすでに出されている。
私見を述べさせてもらう。
アクションが増える、すなわち行動と行動との間の接点が増えると、
切り替え作業というリソース消費で脳が疲弊する。
新しいことに対して、脳が受け付けなくなる。
ここに断絶が生まれる。
わたしは、そう考えている。
大衆の「正しさ」は人を動けなくさせる
一点の間違いもなく動けるのは理想だが、
接点が増えて脳のゆとりが減れば、ミスの絶対量は増える。
確率が同じだとしても、そもそもの母数が増えるためだ。
嫌な例を出すが、人口が増えれば、
頭のおかしいサイコパスっぽい変人は増える。
そして当然、治安にも影響する。
話を戻そう。
ミスの絶対量におびえて過ごす、わたしたち現代に生きる人間は、
これまたネットの世界から聞こえる「正論」とも向き合う。
理屈では正しいこと、に対しての追従を求められる。
もちろん、悪いことに振り切れた行動は慎むべきだ。
街中で理由もなく誰かの命を奪う道理は存在しないし、
資本主義経済において万引き・窃盗は処罰の対象となる。
その一方で、「やったほうが良い」ことへの対処が難しい。
わたしは趣味でごみ拾いをするが、通勤中はさすがにやれない。
毎日運動すべきだろうが、疲弊した脳で真夜中に走ろうとまではならない。
建物内の曲がり角では左右確認すべきだろうが、逐一止まる余裕はない。
このような行動レベルならまだましだが、
新しい活動をする際にもこの「正しさ」は入り込む。
ランニングをするなら、最低でもハーフマラソン完走レベルであるべきだ
料理をするなら、DEAN&DELU〇Aレベルを作ろう
人の心を打ちぬき涙させるような文章を書こう などなど。
「正しさ」とは、乱暴に言えば「完璧さ」なので、
素人には非常にハードルの高いものという根源的な属性がある。
ただでさえ時間や脳のリソースが限られている中で、
精一杯作り出した余白に対しても完璧を求められると、
「じゃあやらなくていいや」になるのは当然の帰結である。
軸は「迷惑ではないか」と「自分が満足するか」
あなた自身が楽しむための活動に、
あなた自身が挑戦するという重大な第一歩に、
他の誰かの言い分が入り込む余地があるというのが、そもそも変だ。
しかも完璧を押し付けてくる。何様なのだろうか。
これは、「質より量」vs「量より質」の議論にもつながるが、
まずは量をこなすというフェーズが趣味でも何にでもある。
楽しめるか・続けられるか・深められるかをあなたの感性に照らし、
次のジャッジをするまでの最初の大事な期間では、
とにかく試しまくることが必要だ。
その時に他人の目を気にすることがあるとすれば、
他の人のリソースを奪っていないか、という観点程度であろう。
ギターをやるときに、防音性能の無いアパートの一室でやれば騒音になるし、
体力皆無で3000m級の山に挑めば遭難待ったなしで多くの人を巻き込む。
最近はAI様に聞けば最低レベルの情報が手に入るのだから、
ここのハードルは、リソース管理で気を遣うことに長けた人であれば、
簡単に突破できる部分である。
その上で、評価軸をあなた自身に取り返すことを推奨する。
世の中の完璧など、一部の極端な人が作り出したものに過ぎない。
料理の専門家の中には、洗濯をろくにしない人もいるだろう。
個人経営で年商10億を叩き出す人は、それ以外を犠牲にしている。
極端な例は、あてにするだけ無意味である。
せっかくやる活動だ。あなたの心の充足となるかを重視したい。
幸せな国ブータンですら、ネットが浸透して他者と比較できるようになり、
幸福度が下がったというではないか。
余計な手間までかけて極端な例を探し出し、
自分の心と向き合わずに心身を消耗するなど、あってはいけない。
迷惑のかからない範囲で、自己の心の充足を第一目標として、
誰とも比較せず淡々と楽しみ、うまくいったら次のレベルを目指してみる。
実践とは、本来はこのようにあるべきものではないだろうか。
結び
以上、主に余暇での活動における実践を主眼に述べさせてもらった。
これは、ビジネスにおいても同様であると考えている。
業務効率化でも新規事業でも何でもよい。
現状のルーチンとは別の活動を始めるにあたっては、
それによって迷惑なタスクが発生しないかをざっくり確認し、
許される限りで小さく動き、うまくいきそうなら次を考えていく、
という「アジャイル型」の心構えで臨むのが健全だと考えている。
カタカナ語で書くと何とも適当なごまかしに見えて嫌であるが、
無限稟議ループを突破するためだけに動くよりも気は楽だ。
それなりの組織にいると使えるツールも探せばある。
あなたにも、このような「探索」からでも試していただきたい。


コメント